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 迷いの森 

 第四章   別離  2 



「痛い…」
真夜中の病室。
紗耶は、感じた違和感に身体を折り曲げた。
妊娠30週過ぎにしては小さめと言われるが、それでも突き出したお腹を抱えていては上向きや、ましてやうつ伏せに眠ることはほとんど不可能で、大概はどちらかに横向きになっていた。
いつもならば、お腹の張りは身体の向きを変えれば治まることが多いのに、今夜はまったく軽くならない。

これが前駆陣痛というものかしら?
多少の知識は与えられていたが、何分にもここは外国。医師に質問しても言葉の細やかなニュアンスまでは伝わらなかったし、通訳を介してではこちらの思うような意思の疎通がでないため、詳しい説明はされていなかった。

すぐに治まるかもしれないからもう少し様子をみた方がいい。
あまり、こんな時間に騒ぎ立てたくないし…。

しかし痛みは時間が経つごとに弱まるどころか強くなる一方で、ついに明け方、紗耶はナースコールのスイッチに手を伸ばした。




早朝、施設から呼び出された房枝は、焦る気持ちを抑えられなかった。
前日に受けた検診で知らされた、胎児の体重は充分なものではなかった。できるだけ出産を遅らせ、胎内で子供の発育を促していくという方針を聞かされたばかりなのだ。

まだ早すぎる。

しかし思惑とは裏腹に、彼女が紗耶の元に着いた時、すでに破水しかけていた。こうなってしまえば、出産を止めることは不可能だ。
施設の医師の診断で、陣痛があまりにも急に進み胎児の位置が異常であるとの見解から、急遽、専門の産科設備がある病院への転院の準備が決まった。
室内では、紗耶がベッドからストレッチャーに乗せ換えられていて、今まさに外へ出されようとしているところだった。

「お嬢様、しっかりしてください」
房枝は運ばれる紗耶に付き添い、声を掛ける。
彼女は傍らに房枝の存在を認識すると、その手を強く握り、切れ切れながらも必死な声で懇願する。
「圭市さんを…彼を呼んで、すぐに。でないと、赤ちゃんが…間に合わない…」

それを聞いた房枝は、表情を曇らせた。
ここに来る前に圭市には連絡を入れたが、すでに彼の元にも施設から連絡が入っていた。すぐには動けない状況にある圭市に、房枝は紗耶と子供のことを託されていたのだ。
「お嬢様、圭市様は…」
「絶対に、絶対に来てくれる。だって、約束したのよ、この子が…産まれる時には必ず…側にいてくれる、って。だから、彼は来てくれる」

そう房枝に訴える紗耶の額には、大粒の汗が浮かんでいる。小刻みな呼吸で痛みを逃がしているが、その顔は苦痛に歪んでいた。
「お願い、すぐに…呼んで。早く!…あぁっ」
痛みの波にのまれ、のたうつ紗耶の身体を抑え込んだスタッフが、ストレッチャーを引く速度を速める。
「付き添いの方は離れて。救急車にスペースがないので後ろから着いてきてください」
スタッフの言葉を伝える通訳はそう言うと、房枝を寝台から引き離し、別の場所に停めてある車へと促す。
なす術もなく見送る房枝の眼前で、紗耶の乗ったストレッチャーは救急車の中に吸い込まれていった。



紗耶は、救急搬送で市街地にある産科クリニックへと運ばれて行った。
その時点ですでに破水していたこともあり、病院に到着すると、すぐに出産の準備が始められる。状態に異常が見られることから、急遽帝王切開での分娩に切り替えられた。
房枝は、慌しく行き来する医師や病院のスタッフに何とか話を聞こうとしたが、生憎と通訳が一旦引き上げてしまったため詳しい状況が分からず、苛立ちを募らせた。
定期的に日本に連絡を入れるものの、しばらくは目新しく報告するようなことは何も出てこなかった。


動きがあったのは、紗耶が手術室に入ってから3時間後のことだった。
房枝は突然目の前に現れたスタッフと、いつもとは違う通訳に呼ばれ、小さな個室に招き入れられた。
「ミセス結城の出産は無事終わりました。しかし、生まれた赤ちゃんが小さく自発呼吸が難しい状態なので、これからすぐにヘリで隣の州の、NICUに空きがある病院に移送します。お子さんに、どなたか付き添いが必要なのですが、あなたが同行されますか?」

何かあった時には対応するように、圭市から言われていた房枝は、即座にそれを受諾した。
「はい。ですが、お嬢…母親はどうなるのですか?」
「母親の方の状態は今は安定している。しかし暫くはこのまま安静にしていなければいけません。彼女を子供と一緒に動かすのは現段階では難しい。それに母親が受けている精神的なケアの対応ができないと、あちらの病院側が受け入れに難色を示している」
それを聞いた房枝は承服できず、医師に食い下がった。
「ですが、私がいない間、彼女は一人になってしまいます。そんなことはできません」
「おそらくは代わりにコーディネーターが常駐することになるでしょう。母親も術後の10日ほどは入院が必要です。仮に動かすとすれば、退院の許可が出てからですね」
「では、それまで母子は…」
「別々に収容されることになります。これは止むを得ない措置です。」
「そんな……」

圭市が不在である以上、今動けるのは自分しかいない。
しかし、紗耶を一人で残して行くことに、房枝は漠然とした不安を感じていた。
結局圭市は紗耶の出産に間に合わず、側に来ることができなかった。この事実を知れば、紗耶は少なからずショックを受けることになるだろう。
そんな状況でここに置き去りにされ、ましてや、産んだばかりのわが子とも引き離されてしまうとは。

この数ヶ月、やっと安定してきた紗耶を、再び精神的に追い詰めるようなことにならなければよいのだけれど。
移送に付き添う準備をしながら、房枝はそれを心配していた。



紗耶が産んだ子供と共に、房枝が後ろ髪を引かれる思いでクリニックを後にしてから数時間後、麻酔から目覚めた彼女は状況が飲み込めずパニックに陥っていた。
ついさっきまであったはずのお腹の膨らみがなくなっている。それに、側にいるはず房枝も姿を見せない。その上、自分は見たことのない病室で器具につながれていたのだ。
まだ朦朧とした頭の中で、途切れた記憶を必死に手繰り寄せる。
そうだ。自分は明け方に破水してしまい、病院に運び込まれた。そしてそのまま帝王切開をすることになったのだ。
準備ができるまでの間、小さな部屋でしばらく痛みに苦しんだ後、手術台に乗せられて、言われるがままに何度か大きく息をしたところで意識が途切れていた。

「赤ちゃん…赤ちゃんはどこ?」
腕に刺さる点滴を毟り取ると、紗耶はふらつきながらベッドから起き上がろうとした。そして下半身にもカテーテルが付けられているのに気付き、それも取ってしまおうと手を伸ばした時だった。
「何をしているのですか」
アラームに気付いた看護師が病室に駆け込んできて、ベッドを抜け出そうとしていた紗耶を押さえつける。
外れた点滴針で切れた紗耶の皮膚からは血が噴き出し、シーツが真っ赤に染まっていた。

「放してっ。赤ちゃん、私の赤ちゃんが…」
「ここにはいませんよ。治療のために転院しましたからね。赤ちゃんは大丈夫ですよ。落ち着いて」
「私の赤ちゃんはどこ?どこにやったの?」

看護師の言葉の半分も理解できない紗耶は、自分が置かれた状況が分からず半狂乱になって暴れ続ける。
ナースコールで呼ばれた医師と応援の看護師たちが、数人がかりで紗耶の身体をベッドに引き戻そうとするが、彼女は力の限りの抵抗を繰り返していた。

「ミセス結城。大丈夫ですから落ち着いてください」
英語の怒号が飛び交う部屋で、聞き慣れた日本語が耳に飛び込んでくる。見れば通訳が慌てて部屋に駆け込んできていた。
紗耶は無意識のうちに、そちらに向かって叫ぶ。
「圭市さんを…夫を呼んで。あの人ならちゃんと話をつけてくれるわ。近くにいるはずよ。お願い、誰か夫を呼んで来て」
「ミセス結城。ご主人はここにはいらっしゃっていません。とにかく落ち着いてください」
「そんなはずはないわ。彼はきっと来ている。探して、彼を探してください」
紗耶の言葉に、通訳は哀れみを込めた目で彼女を見ると、側に立つ医師に場所を譲った。そして、ここで自分にできることは何もないと悟ると、居た堪れない様子で部屋の外へと出てしまった。

「このままだと縫合した箇所が開いてしまう」
興奮した紗耶の状態を危ぶんだ医師は、すぐさま看護師に安定剤の投与を指示した。

「赤ちゃんは無事なの?赤ちゃんに会わせて」
しばらくは激しく抵抗し続けていた紗耶だったが、押さえつけられ、注射を打たれるとそのまま意識を失い、崩れるようにその場に倒れこんだ。

「お願い、誰か…夫を呼んで…お願い…」

彼女が必死の思いで最後に呟いた言葉を理解できた人間は、
そこには誰もいなかった。




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